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明恵上人を継ぐ土地

私が営む古田茶楼の茶畑は、京都・宇治の山奥、池尾という場所にあります。そこは皆さんが思い描くような宇治の美しい茶畑が広がるようなところではなく、うっそうとした茶の原木が生い茂る山深い場所です。
私がこの場所でお茶づくりをするのには訳があります。なぜ、宇治・池尾の地を選んだのか。まずは日本茶の歴史の話から始めましょう。

日本にはじめてお茶が入ってきたのは平安時代初頭。遣唐使が中国からお茶を持ち帰り、当時の天皇に献上したと『日本後紀』に伝わっています。日本はこの時期に限らず、時代時代で中国から様々な学問、文化、技術、そして産物など多くのものを持ち帰ります。これらを輸入していたのは商売人だけではありません。中国へ渡る船の中には都の寺に属する僧侶も乗っていました。先述の平安時代の遣唐使船には、あの空海も乗船していたのです。

時は流れて鎌倉時代。臨済宗を開いた僧・栄西は宋で修行を終え、薬草としてお茶の種を持ち帰りました。ちなみにその時栄西は、お茶の種と一緒に「点茶法」と呼ばれるお茶の飲み方も日本へ伝えたとされます。 「点茶法」とは、粉末の茶を入れた容器に湯を注ぐ方法で、現在の抹茶の飲み方に通じる方法です。ここに日本の抹茶の歴史がスタートしたといっても過言ではないかもしれません。

さて、同時期の華厳宗の僧に明恵上人というお坊さんがいました。彼は宗派を問わず仏教を学んでおり、禅を学ぶために栄西の元を訪れます。その際明恵上人は、禅だけでなく、中国で学んだ禅の修行における茶の活用法・茶の効用・栽培方法・栽培に適した土地について栄西から伝授されます。
京都に戻った明恵上人は、まず栂尾でお茶の栽培を始めます。その後、さらなるお茶栽培に適した土地を求め、生産地を宇治へと広げます。明恵上人の判断は正しく、宇治は天下一の茶所として知られるようになっていきます。

さて、話を古田茶楼に戻しましょう。

冒頭でお話ししたように、古田茶楼の茶畑は宇治の池尾という地にあります。何を隠そうこの場所こそ、栄西から託されたお茶の種を明恵上人が植えた場所と伝わっているのです。

今はすっかり嗜好品として愛されているお茶ですが、明恵上人の生きた時代、お茶は薬でした。何のご縁か、明恵上人ゆかりの地でお茶づくりをすることになった私。宇治・池尾の地で作るなら、明恵上人の思いを継ぐ地で作るなら、体の芯から解毒できるような薬効効果の高いお茶づくりをしたい、それがこの地でお茶づくりをする古田茶楼の思いです。
明恵上人はどんなお茶を作っていたのだろう、800年前の池尾の茶畑に思いを馳せながら、今日も明恵上人を継ぐ土地でお茶を作ります。

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